1992 数奇な出会いと伏線 BAR AMAZON
その昔まだバブル時代がなにかも知らない80年代の末に定禅寺通りの24時間営業のコーヒー店「珈巣多夢」の上に泥酔すると、北アルプス並みに滑落死する危険性があった急な階段を上ると『BAR AMAZON』 という伝説的なBARがあった。業界系の濃い男女が夜な夜な集まり酒と音楽とオネーチャンが好きな人間のたまり場になっていた。そんな店のダジャレマスター半チャンが酔っぱらいを中心に結成したニューオリンズファンクバンド『THE BIG EASY』にアントキノババ、スナイパー、せがちゃん、ケトがいた。そしてそのダジャレのDNAを宮城住みます芸人爆笑コメディアンズに引き継がれるとは誰もが考えもしなかった。
そんな『THE BIG EASY』のあまりに感動的なライブを見て、バンドを立ち上げる事を決意したスズキ氏がモッコリズを闇に葬り、バブル崩壊を経て数年後に結成したお笑い黒塗りアフロづらディスコバンド『EARTH,WIND &THE GANG』(アフロ課長、フィリー小林、美味しんぼショーグンが在籍)と『THE BIG EASY』の両バンドが出会うのはまさに運命と書いてさだめと読む出来事でもあり、それは1992年9月27日の昼過ぎ、けやき並木の美しい定禅寺通りの路上、第2回定禅寺StJazzFesの最中のことであった。そしてこの出会いがその後の四半世紀にも及ぶ苦難のという言葉では簡単に語れない、ラテン不毛の地 仙台のラテン化のほんの始まりだったことを知るものは誰一人いなかったのである。
その後ジャズフェスの赤字救済ライブを、なぜか客が呼べるでしょとの安易な理由でジャズじゃないファンクバンドが託され、141ホールで競演を果たした両バンドは打ち上げにて親交を深め、後にチャガマネビルが悔しがる中、キレイなダンサーに吸い寄せられるかのようにアントキノババ、ケト(Tb)、ハマキョーが『EARTH,WIND &THE GANG』参加することになる。そしてダンサーは大きいイベントの時にしか、ましてはスタジオなどにはこないということを知っても後の祭りであった。
1994 結成前夜
それから2年の歳月が過ぎて行った。『EARTH,WIND &THE GANG』の練習後今は亡き東口ガストが歴史的には清洲会議にも匹敵する運命の日となった。アースの伝説のVoフンコロガシマスダは今では考えられないことに、ライスコロッケをおかずにライスを食べていた。たまたま同じテーブルだったケトとフィリーとアントキノババが「サルサバンド作って定禅寺StJazzFesに出よーぜ」と盛り上がり、最年長だったケトがリーダーに祭り上げられメンバー集めにとりかかることになる。その一言が仙台のサルサ界の運命を決定づけるきっかけとなったことをその当時のケトは知る由もなかった。そしてサルサとサンバの違いを理解しているメンバーがどれだけいただろうか?その後他のメンバーは忘れていたのだがリーダーは持ち前の行動力でただ一人着々と準備を進め、ローカルタウン情報誌やカズ兄、女王、チョノミ、ドンタコスミゾエに声をかけ12月に第1回飲みーティングを『BAR AMAZON』にて開催。しかし 飲ミーティングという名の合コンを何度も見てきた我々はここで簡単に安心するわけにはいかなかった。このラテン不毛の地は、ラテンの神でさえ我々に試練を与え続けることに何の迷いも躊躇もないからである。
1995 命名 サルサ2号(La Salsa Numero Dos / SALSA 2 GO) そしてデビューへ
バンド名は何においても重要であり、インパクトがありかつ何を演奏しているのかわかりやすいこと大事と言い張るリーダーの提案から一部の恰好悪いというメンバーの反対を押し切り 『サルサ2号』に決まる。察しのいい皆様はお気づきのことと思われますが正直 『あずさ2号』のパクリです。リーダーの特権をふりかざし、この名前が決まったことで根拠もなくこれでバンドはうまくいくと思ったらしい。そして選曲も決まり練習するだけだった段階でボンゴ担当が敵前逃亡したりBASSが転勤することが判明しまた振り出しに戻るわけである。世の中そんなに甘くはない。Tb担当予定だったリーダーをコンガ担当にし、コンガ担当だったアフロ課長をボンゴにし、最後まで苦労したBASSをようやく見つけたのが5月、当時圧倒的なパフォーマンスで話題だった米米CLUBのコピーバンド『メコメコムラク』にいたマーカスミウラであった。ちなみにこの頃メコメコにはキャッシュ近藤が在籍しており、リーダーの命名で美味しんぼ将軍マサムネ、ショーグンと名前を変えるたびに出世魚のように仙台の有名バンドを渡り歩くようになる。すでに構想から1年が経っていた。4月には定禅寺の申し込みを済ませていたわけだが、当時今では考えられないことだが書類選考だけだったので最悪本番に間に合えばというゆるいバンドであった。
ラテン不毛の地方都市仙台で、音楽を生業とせずに転勤がなくサルサって何?ってメンバーを集める苦労をその後20年常に味わい続ける事になる訳である。アフロ課長があのグルーポチェベレの初期メンバー(トレス)だったこともあり、たまたまオルケスタ・デラ・ルスの仙台公演にきていた伊藤寛康(Bass)さんと鈴木義郎(Per)さんが練習を見にきてくれたが、メンバー一同舞い上がり練習そっちのけでサインをねだり、気がついたらもう後の祭りであった。
その後リハを重ね9月についに定禅寺StJazzfes@定禅寺パークビルヂングにデビュウすることになる。場所が定禅寺パークビルヂング前と好位置であったのと物珍しさがうけ、内容はさておき意外に高評価であったため、1回でやめようと思っていたメンバーも味をしめてやめられない事になる。まさに思うつぼである。
1996 グランプリ受賞から暗転
96年には仙台市主催のコンテスト『第一回SENDAI LIGHT MUSIC FESTIVAL』にてグランプリを受賞、非売品ながらシングルCDを製作していただいた。某アフロヅラ黒塗りバンドとは違い袖の下はなかったが審査委員に偶然リーダーの職場の恩師がいたのは不思議な縁である。その後結成2年目にして定禅寺StJazzFesのフィナーレに出演するなどして(演奏曲はCucala)バンドはますます勘違いの度合いを深めることになる。ちなみにCD製作は仙台市のミキサー講座の一環として行われ、受講生に後に4代目のKeyとなる長老石森がいたのは偶然なのか運命なのかは不明であるがまだまだ先の話である。その後さる2の音楽監督であり、サルサの伝道師であったアフロ課長が転勤することになりバンドに動揺がおきる。
1997 第一次女王王朝
この動揺を利用してバンドの実権を掌握した女王は女王様と改名。支倉常長が初めてキューバに渡航した日本人であるとの縁で石巻の『サンファンバウティスタ祭り』に呼ばれる。吹上高原のアウトドアフェスティバル、石巻渡波海岸の『Summer Festa97』にてちだ原人に遭遇。MACANAで自主ライブを企画、なぜかちだ原人に賞品を持って行かれる。メンバーは遠征に味をしめはじめる。定禅寺StJazzFesに出演。
1998 キューバへ
ついに98年には一部メンバーが竹内タタタ信一氏(HAVATAMPA、GRUPO ACHE)が率いる『JAPONEATE』にてキューバに渡り、ハバナのメインストリートや、あのサロンロサード(知らない人は知らない)をコンパルサチームで練り歩き、これをきっかけにサルサならなんでもやるバンドからキューバンサルサでいくぞ!にパラダイムシフトする事になる。そしてキューバ滞在中の日本語スピーチコンテストの準優勝者の「タニアが仙台に行くからよろしくね」との連絡が東京のコンパルサ仲間から入り、まさに仙台のキューバ化が劇的に始まろうとしていた。定禅寺StJazzFesでは2度目のフィナーレに出場。10月には駐日キューバ国参事官ガレーゴ氏が来仙した際のパーティーで場を盛り上げ、自腹で(wキューバに招待されるものの未だ実現する気配もない。同年11月に始まった『仙台ラテン化計画』と銘打ったイベントの記念すべき第1弾はやまきょうGでした。スバーラシい音楽家のライブを企 画し、自らもオープニングアクトを勤めるなど、まさに、仙台をラテン化すべく、日々活動 を続けている。これはもともと仙台をラテン化というよりは、あまりにサルサに関心を示さないメンバーに業をにやしたリーダーがうちらが前座やれば聞かざるを得まいし、打ち上げで仲良くなって教えてもらおうというメンバーのラテン化の甘い考えから始まったものであるが、結果よければすべてよしである。
1999 炎由美 炎上
『仙台ラテン化計画vol.2』にGRUPO CHEVEREが登場!仙台のサルサファンを歓喜の渦にまきこむ。打ち上げではBAR AMAZONで炎由美がチェベレメンバーをつぶし、脱がせ、歓喜の渦におとしいれた。いまだに当時のチェベレのメンバーに会うと炎由美のことしか聞かれないw東六小や光のページェント、クリスロードなどでも演奏。定禅寺StJazzFesに出演。さる2史上最強のピアニストゴンサーロ大西が加入。
2000 さんま祭り
『EARTH,WIND &THE GANG』のほたて祭り@青森に対抗すべくさんま祭り@女川に出演。実はさんまでサンバというオリジナル曲をやってほしかったらしい。いちおうサンバとサルサの違いは説明しましたが、どうでもよいとのアバウトなお答えでした。メンバー一同さんまのかぶり物で演奏するはめに…でもお土産にたくさんのさんまをいただき一同にんまり。『仙台ラテン化計画vol.3』に再びやまきょうG。他にはブエナビスタソシアルクラブのイベントとして仙台フォーラムにて初めて映画館で演奏。PAでてこずる。そのほか花見ライブ、伊達ロック2000では『JAPONEATE』のメンバーでもあり「マラケーニョの恍惚」のサイト管理人でもあるchicoさんがもちろんマラカスで乱入。この頃シンセ担当として長老石森が加入。MACANAでは大阪のグイロとコロでMASHさん乱入、泉区民祭り、国際センター、福島フォーラムにて初の福島遠征。定禅寺StJazzFes@円形公園に出演。福島のちゃぼさんグイロで乱入。この頃ゴンサーロ大西が転勤で静岡に逃亡し、長老石森がピアノに昇格。
2001
BASHvol.8、仙台フォーラム、enn openingparty、ラテンアメリカ祭り、NIKKA、泉ふるさと祭り、定禅寺StJazzFes@西公園こけし塔前、さんま祭り、クリスロードに出演。『仙台ラテン化計画vol.4』では横山達治Gのおやじギャグ「ヤラシク御願いします」「ラテン風呂」「世界同時エロ」に全員死亡する。シンセ担当としてテキーラまき加入。
2002
河原町夏祭り、さんま祭り、定禅寺StJazzFes@勾等台公園滝前に出演。
2003 女王博多へ
2月からキューバ音楽の生ライブとDJに限定した仙台初のイベント『サルサ生しぼり』@SHAFTというを企画、実行。ながらくサルサ2号に君臨し、メンバーをおもいのままにあやつってきた女王様が福岡に引っ越すことになり、まりこをennで捕獲するに至る。キャバレー@enn、定禅寺StJazzFes@勾等台公園滝前と3回目のフィナーレ、藤崎X”masに出演。このころ「ラテンのリズムを教えてください」と練習見学に来たドラムの特命係長が持ち前のリズム感に着目されリダーに言いくるめられ加入することになる。
2004 サルサブームの終焉
仙台のサルサブームの終焉は意外に早かったとみるかよく持った方だみるべきなのか。『サルサ生しぼりvol.7』ではなんとペッカーさんが乱入してくれました。定禅寺StJazzFes@勾等台公園滝前に出演。七ヶ浜のイベントではマノリート・イ・ス・トラブーコの前座を務める。
2005
「いやぁサルサさんはお客さんよべるからさぁ」とかなんとかザンマ氏にいいくるめられ、定禅寺StJazzFes@西公園に流される。キューバの至宝PanchoAmat y su cabiedo del sonの前座を務める。じゃがりこが彼らのお気に入りでした。
2006
東六小花見、アートフェス、ジャワ島、秋保温泉のイベントに出演。mixiのコミュニティではっけよいを捕獲。定禅寺StJazzFesでは昼は西公園夜は定禅寺通りナイトステージ@定禅寺ビルのフィナーレに出場し、バックダンサーとともにトリで盛り上げる。
2007
redhouse、『仙台ラテン化計画vol.5』ではオルケスタデラカンダさんに盛り上げてもらう。たまたまFLOOR PLAY仙台公演できたたパーカッションのAlex Leon http://www.myspace.com/alexleonjr がきてくれて乱入して盛り上がる。TBC夏祭り、定禅寺StJazzFesに出演。この頃さる2の秘密兵器ことあっきぃ久保が加入。以後彼のギターはさる2に欠かせなくなり最近ではシンセも弾くように。
2008
河原町夏祭りに出演。久しぶりに『サルサ生しぼり』を復活、HEAVENに初出演。ステージにほんとぎりぎりでした。Vivela! Salsa Tour”08 LA-33宮城公演にてLA-33の前座を務める。一部メンバーがSONのバンド(TRES TRIPULANTES) を立ち上げ、女王様が諭吉1枚をヒサシに手渡し、「これでキューバに行ってトレス買ってきて」と言い放つ。定禅寺StJazzFes@錦町公園に出演。
2009
『仙台ラテン化計画vol.6』にてGuarapo de la Bombaさんが来仙@HEAVEN。定禅寺StJazzFes@錦町公園に出演。
2010
『EARTH,WIND &THE GANG』の横浜ライブから遅れる事1年、ついに念願の東京進出を果たす。しかも『JAPONEATE』のリーダーの経営する築地CubanCafeで。これもGuarapo de la Bombaさんとはっけよいのおかげです。
2011 震災を乗り越えて
2014
定禅寺StJazzFes@西公園
2015 氷河期からの新陳代謝 K-Girls
ついに創設20年という輝くべき年に突入し、20周年ライブするぞ!黒塗りアフロバンドの25周年には負けない!と意気込むリーダーに反比例するかのように、安倍政権の支持率のようにメンバーの練習参加率は落ち込む一方であった。あれだけ東京からリハに来てくれたハッケヨイがおめでたいことに子供ができ「もうキツイっす」と離れて行き、創設以来の不動のメンバーあんときのババが「サルサ2号に対してモチベーションを上げることが出来なくなったからです。」と言い残し東京へ、ロドリゲスオセザワは「ススキノにいいお店あるんですよ」と札幌に去って行った。もう米マックスだけには頼れない…封印されてた禁じ手を使うしかないなと不適な笑いを浮かべるリーダーの耳元にささやくコバヤシの姿が。 SON四郎のオープニングアクト@HEAVEN